10/26 ⑥宝くじ8億当たった結果

開業

実際に飲食店を持つということは思っていたより大変だ。フランチャイズではないから、マニュアル作成からレシピ作成、大量に面接して雇用したオープニングスタッフのゼロからの教育がある。

スタッフが初めて出勤してくる日の一週間から、一日中フライパンや中華鍋を振り、レシピを作り、作ったものの写真を撮る。学生時代の厨房経験は非常に役立った。

あの時もかなりの密度で訓練とも呼べそうな練習をしたが、その土台がなく飲食店を開業するのはかなり難易度が上がるだろうということは想像に難くない。

「それでも毎日納得が行くまで練習を続けた。彼女の母親や私の母親、その友人達にも来てもらって客の役をしてもらったりもした。

自分たちで味見を続けていても、もはやそれが食べ物だとは思えない域に来

てしまうのだ。その結果母親連中の体重はかなり増えてしまったようだが。

新人研修が始まると、さらに多忙になる。なんせ朝から夜遅くまで営業している店だ。従業員にもそれぞれ働きたい時間帯はあるし、研修は毎日、丸一日私たちが付きっきりとなる。彼女はホールスタッフの研修、私は厨房の研修を担当した。

社長でありながら店長も兼任している状態だった。開店までの時間も確か二週間程度だったと思う。

その期間になるべく完璧な料理を調理から提供まで出来るように育てなければならない。とは言え、私自身もブランクはあるし、付け焼き刃で練習した程度だ。

特に席数が100席を超える店舗である分、従業員の教育はかなりハードで、疲れ切っている私を尻目に研修時点でやめていく従業員も多かった。もし、資金が無限と言えるほどなければ、彼らに払う時給や練習用食材のロスだけでも心を痛めたかもしれない。

結局、二週間の研修期間で三割程度の従業員は辞めたものの、何とか飲食業を経験してきたスタッフが中心となって一応は営業できる形となった。

そんな見切り発車のような形で一号店は開店初日を迎えた。

大規模な広告を出していたし、当時数千人のフォロワーがいたSNSでも宣伝をした。

また、数か月は「〇月〇日オープン!」と書かれた垂れ幕や看板を置いていた効果もあってか行列ができるほどの繁盛ぶりだった。数か月に及ぶ毎日の開店に向けた準備で二人ともやつれていたが、そんな疲れを吹き飛ばすほどの成功ぶりだった。

約20卓、105席ある客席は全て埋まるどころか、何回転もした。客数は覚えていないが、開店から晩まで客足が途絶えることはなかった。

「私はオーナーらしく得意げに豪遊したときに作ったオーダースーツを着て、帰る客に手土産を渡していた。従業員の名札を作る時に一緒に作った「社長」のネームプレートが胸元に光っていたのに何人が気付いただろうか、と考えるとさらに得意な気分になったのを覚えている。

開店初日の売上は当初想定していた数倍にのぼり、A子は喜んでいたが私はひとまず安堵する気持ちの方が勝った。

なんせ何か月も働きづめだったし、それが報われるかどうかも分からないという不安もあった。また、いくら資金があるとはいえ、10年分以上の生活費をどぶに捨てるわけにもいかなかった。

この繁盛が続くとは思わなかったが、それでも金を稼ぎ続けられそうなビジネスを作り上げられたというのは、金だけで得られる自信とはまた違った、安心感や安定感のある自信だった。

それから数か月に渡って「オープン景気」なる繫盛は段々と落ち着いてきた。常連も定着してきたし、従業員たちも慣れてきて、安定期に入ったといえる。

この時の売上が休日で50万円ほど、平日でも半分の25万円ほどあり、月の売上高が1000万円を切ることはなかった。あらゆる経費を差し引いてもその一店舗だけで300万円程度は純利益が残っていたのを覚えている。

確かに毎月結構な利益は残るものの、持続するかも分からないし、元手を5000万円としても回収するまでに二年間は繁盛を維持しなければならない。

それでも初めて起業したビジネスが成功基調にあることは私の心にも大きな影響を与えた。私はもはや、「偶然大金が転がり込んできた男」ではなく、「真っ当なビジネスで成功している社長」だったのだ。

この時には、金持ち自慢をしていたSNSも店の広告がメインになっていた。SNSのフォロワーを獲得していたことがここで役に立つとは思っていなかった。

「店には、以前私が勤めていたような備品販売の営業から食材の営業、広告の営業など次々、私に会いたいという人がやってくる。彼らは、以前の私のように「社長!」と愛想よくにこやかに手土産を持ってやってくるのだ。

単に「大金を持っている男」がちやほやされようと思えば、車を買ったり不動産を買ったり、あるいは銀行に行って投資商品を買うしかない。

ある程度の承認欲求は満たされるが、それでも決して私の地位が上がったとうわけではないのだ。一方で、「成功した事業を持っている男」は地位が高い。何かを買いに行かなくても、集団の中では私が常に最も偉いのだ。

それに、営業マンは私が何かを買った後でも他社と契約されないように事あるごとに会いに来るようになった。まるで王様に謁見したがる弱い小国の外交官のように見える。

読者はこのように、私が王様気分になってしまったという経験談を開けば私の性格が歪んでいるのではないかと思ってしまうだろうか。

しかし、金を持って間もないころと同じく、地位が高くなって間もない頃にはこのような勘違いもしてしまうのだ。そして、多くの場合この「勘違い」こそが足元をすくわれる原因になってしまう。

ただ、実際のところ店長として店を管理する仕事だけで精一杯で(開店してしばらく経って定休日を作ったとは言え、基本的にはほぼ一日中拘束されるのだ)いわゆる「ざる経営」というやつだった。私は社長というよりは店長だった。

そのままではそう遠くない未来に身体を壊してしまうことは必至だと思われた。「私たちは開店して半年もする頃には、バイトをしているフリーターの中から店長を探すことに決めた。

 

順風満帆の経営

経営センスがあったかどうかは分からないが、ここでも運が味方してくれたようで、右も左も分からないまま起業した飲食店はうまく軌道に乗っていた。

従業員同士の仲も悪くなく、週に五日も六日も働いてくれるフリーターや昼間の主婦軍団を中心に上手く協力も出来ていた。半年も経てば、開店直後のように毎日トラブルが発生してその度に店長である私やA子が対応に追われたり呼び出されたりすることも少なくなった。

また、新しい従業員を雇ってもある程度バイト同士で教えあえるようにもなってきた。「私たちはその中でまだ22歳前後だったフリーターの女性B子に店長をしてみないかと提案することにした。

B子はまだ見るからに若者で明るい女性だったが、コミュニケーション能力も高く仕事熱心でもあった。

A子は昼間の時間帯に店長(兼スタッフ)として働いていることが多く、その日も私は数人のアルバイトと営業終了後、閉店作業を行っていた。

店長としての業務を終えた後、他のバイトと喋っているB子を一人事務所に呼び出し、正社員として店長になってみないかと提案した。それまでの時は平均的なアルバイトの水準と変わりなく、待遇だけで言えば週に二日休みがある正社員の方が圧倒的に良かった。

B子は言うまでもなく店長としての素質もあったし、他のバイトとも友好的な関係を築いていた。しか、B子にとってすぐにその決断を下すのは難しいようで一旦は保留という形になった。

その日は閉店後で夜遅かったというのもあり、簡単な待遇を明示した紙だけ渡して、外部から雇うよりは今リーダーシップを発揮しているB子が店長になった方がスムーズだとも言い添えた。

私は一刻も早く、社長と店長を兼任し続ける過酷な環境を整理する必要があった。あまりにも体力が削られるし、順調なうちに二店舗目の開業も考えだしていたということもある。

しばらく返答を避けられていたため、後日私は一人で、B子を「落とす」ためにプライベートで呼び出すことにした。

私とB子は働く時間が被っていたが、A子とはそれほど面識がなかった。それに、2対1で話をするのは圧迫感があって逃げるように辞められてしまうことも避けたかった。

私はB子にアポをとり、ある日の昼間に会うこととなった。

短い営業マンの経験から、人に要求を通す際にはまず相手を圧倒する雰囲気作りが必要だということは心得ていた。交渉ごとは相手のフィールドではなく自分のホームですべきだ。

「当時、私はマンションの使っていなかった8帖ほどの一室を応接室として改装していた。マンションのエントランスから静かな廊下、巨大な玄関やその横に備えてある広いシューズクロークまで何から何まで相手を圧倒する材料になる。

ここに通された客は誰であれ、私が飲食店を一店舗しか経営していないとは思わず、若くして何社も経営している経験豊富な社長だと錯覚する。このハッタリこそが「財力」なのではないだろうか。

私はアルバイト達にとって普段は単なる店長でしかない。いつしか彼ら

からは「オーナー」と呼ばれていたが、社長よりは親しみやすい呼称だったのではないだろうか。親しみやすさは時には威厳を損なうこともあるのだ。

B子には、まずは会社を信用し、簡単に倒産することはないという安心感を与える必要があった。また、私は敏腕社長なのだと思い込んでもらえば威厳も出るというものだ。

しばらく袖を通していなかったスーツを着て、バッテリーの上がりそうなマセラティ(当然出勤にはほとんど使っていない)に乗り込み、待ち合わせ場所までB子を迎えに行った。

B子の反応はまさに期待以上だった。マセラティに乗ったB子は「音がすごい!」「速い!」と興奮していた。マンションに着くと、視線をせわしなく上下にやり、落ち着かない様子でエントランスを抜けた。

A子から掃除屋、内装業者まで何度も見た反応ではあるが、若い分B子の方が素直に態度に出るため分かりやすい。一歩進むごとに「へえ」「すごーい」と独り言を言っていた。

エレベーターに乗り、二人きりになると、それまでは意識していなかったが、A子以外の若い女性を部屋に上げるのは学生以来だったことに気付き、私も緊張してきたのを覚えている。

単なる一人の従業員としてしか見ていなかったが、普段アルバイトに来る時とは違う服装や柔軟剤の匂い、根本が黒髪になってきている明るい茶髪までもが女性であることをじさせ、途端に落ち着かなくなった。

緊張を和らげようと適当な話をしたが、いつもよりよく笑うB子にどうしても心臓が高鳴ってしまう。高層マンションのエレベーターは非常に速い。あっという間に高層階に着き、部屋に案内する。

それから応接室に通し、気合を入れて本題に入った。

まず労働条件についてこちら側の提案をした。給与や残業の目安、それからどうしても店長職に付きまとうイレギュラーなトラブル対応が予想されるということなどを説明した。

しかし、B子の心配は他にあるようだった。そもそもどこでも正社員として働くことを考えておらず、先行きが定まっていない状況に甘んじている環境が好きだったらしい。

あわよくば結婚して専業主婦になるかパート主婦にでもなろうという若い女性にありがちな考えらしかった。

普段なら説得など試みないが、「成功者」の風格で相手を圧倒している私にはそう難しいことではなかった。

これから店舗を増やしていくことや、共同経営者として長い付き合いになること、うまくいけばマネージャーとして年収一千万以上は稼げることなど適当なことを言ったと思う。

実際には何も決まっていない段階だったのだが。

女性は野心家であるイメージはないが、B子は自分の将来像が定まっていなかっただけに、「うまい話」だと思ってくれたようだった。

それほど時間はかからず、B子を正社員として雇用することが決まった。正社員を雇用するのは初めてだったが、後日ほとんどを社労士に丸投げするだけで思っていたより簡単に終わった。

それまでアルバイトとして働いていただけに、店長の引継ぎも楽だった。人事業務の一部は私がせざるを得なかったが、それでも日常的な現場仕事から離れられ、ようやく時間を持つことができた。

B子が店長となってからも、何の問題もないどころか、開店以降落ち着きつつあった売上はB子が考案した季節メニューなどの影響もあってかやや増加していた。そうこうしているうちに開業後一年が経った。一年目の利益は目標を大きく上回る繁盛ぶりで誰が見ても順調だった。

そして、満を持して二店舗目の開業を考えているときだった。偶然、店に営業として来たのがCというコンサルタントだった。

彼は本社は都心にあるものの、私の店の周辺地域に展開している経営コンサルティングの会社のコンサルタントだそうだ。年齢は聞かなかったが、私より少し年上とは言え、まだ30代前半のように見える若さだった。

それでも妙な落ち着きがあり、いかにも優秀そうに見える。

私は社長になって一年しか経っておらず、まだまだ未熟だったと思う。この偶然来た営業マンに二店舗目の開業を相談することにしたのだ。一種の業務委託契約としてC(の会社)と契約を結んだ。

これが後悔してもしきれない過ちだったということに気付くのはしばらく後のことだ。

 

二号店

やはりCは非常に優秀なコンサルタントだった。頭が良く、人脈も広かったため、二号店のテナントを探す際も役に立ってくれた。

ホームページには載っていないような物件も紹介してくれる不動産屋との間を取り持ってくれたし、厨房機器の仕入先も紹介してくれた。

Cにとっても紹介料が入るだろうし、私にとっても経費を抑えることができて、心からCにコンサルタントを頼んでよかったと思った。

また、宝くじの当選以来孤独だった私の飲み友達にもなった。現場の仕事から離れた私は二号店について考えを巡らせる時間が長くなった。

そんな時にはよくCに連絡を取り、会食をしたものだ。Cの話は勉強にもなった。社長がやりがちな間違いだったり、実際に倒産した企業の話だったりと、私の知らないことをたくさん話してくれたのを覚えている。

私にとっては、それよりも久々に人と飲む酒が美味かった記憶の方が強いのだが。

一号店の時よりもかなり早いペースで二号店はオープンした。一号店からそれほど遠くない立地だったため、近くに住む従業員の一部を異動させることが出来たのも大いに助かった。

Cのおかげで、一号店とほとんど変わらない大きさのテナントを用意できたのも好都合だった。事業計画自体を修正する必要はなく、フランチャイズ店を開業するようなものだった。

B子にはマネージャーとして二店舗分の店長を勤めてもらうようにした。一方A子は経営者らしくなってきていた。

出資した金は10%ほどだったが、それでも充分な報酬を得ていた。その資金を元手にA子は私とは関係のないネイルサロンのような小さな店まで経営するようになっていた。

そのため、飲食店の経営の方はほとんど私が行っていた。A子との関係に少し不満を感じ始めたのはこの時だったと思う。

元来、私は働かずに「快適な生活」を送ることに満足していたほどだ。当選後すぐに仕事も辞めたし、そういう人間なのだと思う。

一方、A子は私とほどんど同棲生活が始まってからも仕事を辞めることはなかったし、私の資金に頼らず500万円も出資したほどだ。金というよりも仕事自体に興味があったのはA子だったのかもしれないと今になって思う。

A子との会話は仕事のことが9割を占めていた。以前のように家では大画面で映画を見てくつろぐことも、夜は毎日のように外食に出かけて遊ぶということもなくなってしまった。

仲が悪くなったというわけではないのだが、自分のビジネスを持ち、自立していくA子が私にとって遠い存在になっていくように感じられた。

このあたりからミーティングと称してB子と会食をすることも増えた。実際、店に関する相談事を受けることも増えていたし、従業員について書類上の報告も定期的に受ける必要があった。

本当は店の事務所で会えばいいのだが、わざわざ会食をしていたのは言うまでもなく私の興味がB子に移っていたからだ。結局、私が可愛く思うのは「自立していない」女性なのだ。

食事を奢ってあげれば素直に喜び、仕事はできてもよく相談してくる女性は、男としての承認欲求を満たしてくれるのだ。

B子から誘いの声がかかることも多く、お互い男女としての意識はあったが、もちろん肉体関係を持つようなことはなかった。

私の個人的な人間関係は変化しつつあったが事業の方は相変わらず順調だった。二号店は一号店とそれほど離れていなかったものの客が二店舗で被ることはあまりなく(これもCの戦略が上手くいった)、利益は単純に倍になった。

また、二店舗分契約することで食材の仕入もコストダウンすることができたし、八億円を増やすという目的の達成は遠くない未来のように思えた。

私はA子ほど商売への向上心はなかったし、多くても三店舗を黒字経営出来ればそれで満足だと思っていた。今思えば、A子の向上心はそもそもの資金が少ないことに起因していたのかもしれない。

私のように個人としての貯金が何億円もあるのならそれほど仕事熱心になる必要もなかっただろう。

実際、5000万円をかけて作った100席ある大規模な飲食店を順調に運営していても一億円すら稼ぐのには何年もかかる。商売はイメージほど簡単にはいかないのだ。

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